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ダメな面接【2】自己PR不要論 自然な会話を

ダメな面接【2】自己PR不要論 自然な会話を

学生は一生懸命に気合を入れて自己PRの準備をしてくる。実際、自己PRはなかなか見事なものだ。緊張しつつも、どの学生も身振り手振りを加え、熱弁をふるう。ここまで一生懸命やってくれたのかと感心することさえある。

一方、自己PRは極論すると、その人がどんな人なのかが伝わればよいわけである。いかにも練習と準備を重ねた自己PRは、努力は認めるが逆にわざとらしく感じるものである。また、そのような自己PRをする人に限って、ちょっと自己PRの途中で質問したりすると、しどろもどろになってしまうケースもある。

面接官から実は評価されないにも関わらず、学生がよく用いるのは「比喩」と「自分には○×力がある」というアピールである。

以前もレポートしたが「自分は納豆のように粘り強い人間です」という「比喩型」自己PRだが、これも実は効果的ではない。1日に何人も面接する面接官にとっては、「また納豆人間か…」という印象を与えてしまい、逆に本人のオリジナリティーを消してしまうことが多々ある。

「私の強みは○×力です」という自己PRも、実は面接官にあまり響かない自己PRである。それを証明する根拠がないと伝わらない。その能力を評価するのは本人自身ではなく、他人である。

では、自己PRでは何を言えばいいのか? ごく自然体で、自分のこれまでの歩み、これからどうなりたいかを話すのが実は一番、信頼される。

毎年、合格する学生との面接は、「会話」のような自然なものとなる。その方がこちらも質問してみたくなる。さらに言えるのは、合格する学生は「納豆なような人間です」や「○×力がある」ということをわざわざ自分から言わなくても、「あなたは納豆みたいな人間ですね」、「あなたは○×力がありますね」というように、面接官の方から形容したくなる学生である。

自然な会話の中や醸し出すオーラから自分という人間が伝えられるかどうか。良い自己PRというのは突き詰めるとここに行き着くのかも。

文■谷村ジンジ(メーカー人事部勤務)

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ダメな面接【1】しゃべりすぎは話さないのと同じ

ダメな面接【1】しゃべりすぎは話さないのと同じ

企業の採用活動も面接→内定だしという段階にきている。すでに数社に合格している人もいれば、まったく決まっていない学生もいる。「売り手市場という感覚は全くない」という声も聞こえてくる。たしかに、金融機関を始めとして大量採用を実施しているが、自分が行きたい業界・企業の求人が増えているわけではない。また、各社が求める人物像は言い回しが違っているだけで、ほぼ似通っている。結局、内定が多数出る学生と、まったく出ない学生に二極化するのは売り手市場になっても変わらない傾向である。

選考プロセスで最も重視されるのは面接である。「ダメな面接」にスポットを当て、落ちる学生の傾向をお伝えする。

面接で玉砕する学生はパターンが似通っている。その中でも、実は多いパターンが「しゃべりすぎ」である。学生は面接の練習を繰り返し、本番に臨んでいる。特に、自己PRなどには非常に力を入れている。

一方、「あれもこれも」と詰め込みすぎて長くなってしまうことはよくあることだ。たまに自己PRに5分以上かける学生と遭遇する。志望理由から、勉強からサークルからアルバイトから趣味まで網羅的に長々と話をする。会社の雰囲気にかかわらず、一芸披露をする学生もたまにいるようだ。就職ジャーナルの面接特集では、「学生が手品を披露したが、イマイチだった」ということをカタそうな会社の人事が語っていたが、気持ちはよく分かる。しゃべり過ぎの学生に自己PR内容に関する質問をすると、用意してきた答え以外のことは答えられないこともよくある。

グループディスカッションも同様だ。話が長い学生はたいてい、ここで落とされてしまいがち。「しっかりと自己PRしたのに、落ちたのは何故だ?」という学生の声をよく聞くが、言うまでもなく、しっかりした自己PR=長い自己PRではない。要するに相手に伝わるかどうかが大事である。簡潔に、分かりやすく伝えてもらいたいものだ。

現場の社員が面接官に動員されていることは前回もお伝えしたが、現役社員は簡潔な話を好むので長い話は逆効果だ。実際に、面接を通過する学生は、別に長い話をしなくても醸し出す雰囲気で人となりが伝わる学生が多い。また、別に面接では「上手に話せるかどうか」をみているわけではない。話すだけでなく、人の話を聞けること、場の空気を読めることも大切である。

しゃべりすぎは話さないのと一緒である。この部分はぜひ、見直してもらいたいところだ。

文■谷村ジンジ(メーカー人事部勤務)

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犯罪被害者、ケアなど「支援なし」4割・内閣府が意識調査

犯罪被害者、ケアなど「支援なし」4割・内閣府が意識調査

内閣府は19日付で「犯罪被害者等に関する国民意識調査」を発表した。調査は国民一般と犯罪被害者(家族含む)双方を対象に初めて実施。国民一般の7割が被害者に対してカウンセリングなどケアが施されていると考えているが、被害者の4割がいずれの支援も「受けることができていない」と感じており、国民認識と現実の間のギャップが浮き彫りになった。

被害者らに実際に受けることができた支援を聞いたところ、「周囲の人からの支援」(22.8%)、「被害者団体などからの支援」(18.3%)などが上位を占めた。ただ最も多かったのは「いずれも受けることができていない」で44.3%にのぼった。

これに対し、国民一般は被害者らが「カウンセリングなど精神面のケア」をはじめ多様な支援を受けていると考えている人が多かった。「被害者らが支援を受けることができていない」と感じている人はわずか10.4%だった。(20:05)



非常に難しい現実ですね。
カウンセリングなど精神面のケアの充実…これからはとても重要な課題ですね。

阿部政権に期待するのは…難しいかな。

テーマ:ニュース - ジャンル:ニュース

人は、何歳まで恋愛できるか? - 03

人生90年時代の許される生き方、許されない生き方研究

ひとりぼっちで終る人生はさびしい
職業に定年はあっても生きることに
定年はありません。年齢を重ねたからこそ
得られる性愛の自由もあるのでは…




たとえ歯の浮くようなセリフでも口に出していわないと思いは通じない

年をとって勃起しなくなると、男は自信を失う。だからこそ、ひそかにED(勃起不全)治療に通ったり、こっそりバイアグラを買い求める人が後を絶たないのだろう。勃起不全イコール男が男でなくなる、という強迫観念は抜きがたいほどに根強い。だが、どんな男性でも、遅かれ早かれその日はやってくる。そのとき性欲も一緒になくなってくれれば「一丁あがり」ですっきりするのだが、性欲だけは残る。事情は女性の場合も同じだ。

「海外で「百合祭」を上映したときのこと。上映後に私のところにやってきて、泣いてすがりついてきた男性がいました。「映画を観て肩の荷が降りた。楽になった。生きていく希望がもらえた」というんです。セックスは挿入がすべてではない。やわらかいものを押しつけるだけでも、女の人は気持ちよくなれるんだというメッセージは、男性の救いになったみたいですね。外国の男の人は、そんなふうに口に出していえるからいいんです。日本の男性たちは、つねに男は女より上位でなければならない、強くあらねばならない、男は女を喜ばせなければならない、という固定観念にしばられて、弱音を吐くこともできないでしょう。

これは今さら年配の男性にいっても手遅れですから、若い人たちにいいたいのですが、人間の生活の中で一番の基本は、セックスの場でも男と女は対等な関係であるべきだということ。男と女が裸で抱き合うときに、互いに相手を対等な存在として認められないようなら、別れたほうがいいと私は思います。男に性欲があるように女にも性欲がある。それが認められないようでは、いい恋愛はできません」

浜野監督は続ける。
「これは悪口ではなくて、日本の男性は表現の仕方が下手なんです。釣った魚にエサはいらないとか、女は閉経したら賞味期限切れだとか、そういう表現しかできないのは本当に困ったものだと思います。

映画の中で、ミッキーさん演じるモテモテ男は「あなたは幸運の女神ですね」とか「笑顔が美しいですね、菩薩様のようですね」とか、歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく連発します。世間からはお婆さんとしてしか扱われない老女たちを、レディとして扱い、持ち前のリップサービスとソフトタッチで、長い苦難の道を歩んできた老女たちの心をしっかりつかんでしまうのです。まじめな宮野さんも、忘れていた体の奥の甘美な感覚を取り戻す。歯の浮くような台詞でも、やっぱり口に出していわないと心は通じない。それと、老女たちの会話の中で、
「この年になると、男が少なくなるんだもの、早く死んじゃってさ」
「生きていたって、セックスアピールしてくれるようでなけりゃね」
というやり取りがあるんですが、実はこの台詞は日本の女たちが、自分の亭主たちに一番いいたいことなんですよ」



猫と猫が身を寄せ合うように、死ぬときまで誰かと身を寄せ合っていたい

「最近、高齢者向けの結婚情報サービス(結婚につながる出会いの場を提供する)が話題になっていますが、以前、ある都市の70歳以上の高齢者の出会いの会で「百合祭」を上映したことがあります。そのとき、会の人に、登録者が結婚に至る率はどのくらいか聞いてみました。そしたら、あまりまとまりませんというんです。

理由を知って納得しました。男性と女性とでは結婚に求めるものがまるで違っていたんです。
女性の場合は、この先、残り短い人生を、手をつないで散歩したり、芝居などに一緒に観に行ってくれる相手をパートナーとして求めている。これに対して、男性の場合は、妻に先立たれて身の回りのことに不自由を感じているから、ごはんを作ったり、パンツを洗ってくれる人に嫁にきてほしいというんです。これでは、まとまるわけがないでしょう」

要するに、高齢世代の男が結婚相手に望むのは、家政婦だったというお話。夫唱婦随、黙ってオレについてこいという家父長的な考えにこり固まった頭には、男女対等の考え方は受け容れにくい。こういう人たちは、もう恋愛も結婚もできないのだろうか。

浜野監督はいう。
「私たちの親の世代は、写真1枚で結婚させられたという例も珍しくありません。中には全裸でセックスしたことがないという夫婦もいるくらいです。そういう人たちは、男と女が裸になって相手をいつくしみ、男の体をいとおしんだり、女の体をいとおしんだり、という満ち足りた性愛の経験がないのです。晩年のさびしさと後悔は、つらいものがあるに違いありません。

人は一人で生まれ、一人で死んでいくのですが、老い先短くなれば、誰か自分のそばにいてほしい、猫と猫が身を寄せ合うように、誰かと身を寄せ合っていたいという欲求は切実になるでしょう。人をいとおしく思う気持ちというのは、男女間の性的な欲求に限らない、素直で自然な接触欲求といえます。「百合祭」の結末では、男女の性愛から解放された新しいセクシュアリティの可能性も示唆していますが、そういう気持ちのいい関係を、ともに生きていく人とどう分かちあっていくか、真剣に考える時代になってきました」



もしこのお爺さんが自分の父親だったら…。
試されているのは自分の性意識


これもある地方都市で上映会を開いたときのこと。浜野監督は、市長からこんな話を聞いたという。

「市長さんがいうんですから嘘じゃないと思いますが、ある老人ホームで入居者の女性たちにお化粧をすすめたところ、ホームの雰囲気が明るく華やかになり、部屋に引きこもりがちだったお爺さんたちもちらほらロビーに出てくるようになったそうです。そこで次に、お風呂を混浴にしようということになった。そしたら、寝たきりで下の世話までしてもらっていたお爺さんが「ワシも行く!」といって、翌日からリハビリに励みだしたというんです。
それまで生きる気力もなくリハビリも拒んでいたお爺さんが、混浴と聞いて生きる力を取り戻し、半年後には車椅子でお風呂に行ったそうです。混浴の一言が、彼の中で眠っていた生きるエネルギーに火をつけた。思うに、混浴のお風呂に一緒に入りたいというのも一種の接触欲ですね。異性の中に裸で入っていくことで、生きる力をもらえる気持ちになったのではないでしょうか」

もし、このお爺さんが自分の父親だったら、あなたは「みっともない」と叱るだろうか。それとも「よかったね」と声をかけてあげられるだろうか。

試されているのは、わたしたち自身のセクシュアリティなのかもしれない。
「人生50年の時代は、性=生殖の枠組みにとらわれてきましたが、私は、生殖から解放された年齢になったからこそ謳歌できる性もあるといいたいんです。男も女も、年をとったからといって、人を好きになる気持ちや、好きな人と触れ合っていたい気持ちを抑えつけたり、諦めたりすることはない。それどころか、年齢を重ねたからこそ得られる性愛の自由もあると思うんです。職業に定年はあっても、生きることに定年はないんですから」

いくつになっても男と女。いきいきとした人生を送りたいものである。



女性の視点で見たシニア世代の性と愛 シニアの性を考える「百合祭」

人は、何歳まで恋愛できるか? - 02

人生90年時代の許される生き方、許されない生き方研究

心と心、体と体でつながっていたいから
肉体的に欲望を持てない
男性や女性は、恋愛の卒業生?
自分のセクシュアリティを否定するのは不自然。




「枯れたお爺さんと可愛いお婆ちゃん」でいてくれたら扱いやすいのに…

人生50年の時代だったら、高齢者の性愛が問題になることはなかっただろう。しかし人生90年の時代になると、男も女も生殖から解き放たれてなお30年という「長すぎる余生」が続く。還暦をすぎれば色恋の欲求も消えるのなら、これまで通り日本人が理想としてきた「枯れたお爺ちゃん」「可愛いお婆ちゃん」として生きられる。だが、実際には60歳、70歳を過ぎても、「枯れた老人」になるのはむずかしい。これをどうするか。

今日ただいまの超高齢化時代は、人類が初めて経験することなので、モデルを探そうにもそのお手本がない。

浜野佐知監督のコメント。
「私も、老人ホームの職員の方や、お年寄りの介護をしている方から、悩みを聞かされることがあります。エロ爺さんが若い女性ヘルパーのお尻をさわって叱られるというのはよく聞く話で、そのレベルの話なら「爺っちゃん、そりゃセクハラってもんだよ!」ですむことですけれど、老人ホームでも性に関わるデリケートなトラブルは現実に起こっているんです。

管理する側からすれば、お年寄りというのは枯れたお爺ちゃんと可愛いお婆ちゃんでいてくれるとやりやすい。老人の性というものは世話する側からすると、実にやっかいなものだと思います。だから、そういう問題は見て見ぬふりをする。へたに首をつっこむと、自分(世話する側の人たち)の考え方やセクシュアリティがあらわになってしまうという恐怖心もあるでしょう。

でも、だからといって、いい年をしてみっともないとか、分別をわきまえなさいと抑えつけるのはいけませんね。人は年をとっても恋愛はするし、セックスへの欲求もある。まず、それをきちんと認めてあげないと……。あくまでも個人の意思を大切にして、そこから関係が始まらなければいけないと思います」



男なら許されることでも、女はダメという性の社会の通念

ここで、浜野監督の映画「百合祭」のストーリーを紹介しておこう。

舞台は、森の中にある住み心地のよさそうなレトロな洋館。そこはアパートで、住人は69歳から91歳までの、いずれも一人暮らしの老女ばかり、5人が住んでいる。その中の一人、きものがよく似合う宮野さんという73歳の未亡人(吉行和子)が主人公だ。

ある日、この「女の園」に、ちょっとキザでダンディな老人(ミッキー・カーチス)が引っ越してくる。紅一点ならぬ黒一点。この男、ほめ上手、くどき上手で、たちまち宮野さんをはじめ住人の一人一人と逢い引きしたり、ひそかに「関係」を結んだりする。しかも、女たちには「自分だけが特別」と思わせている。いうなれば、老人版・光源氏というところ。ところが、いつまでもそう薔薇色の日々は続かない。ひょんなことから、女たちに真相を暴かれて大騒動……というのが前半のストーリー。

この「百合祭」には原作があるが、映画の後半は浜野監督のオリジナルだ。主人公の宮野さんは、このあと、意外や意外、恋敵だった元バー経営者の色っぽい老女(白川和子)とあやしい関係に突き進む。

「商業映画として観客動員を考えるなら、この映画のラストは、いろいろとすったもんだはあったけれども、最終的に吉行和子さん演じる主人公と、ミッキーさん演じるちょいワル爺さんが結婚して、めでたしめでたしで終わったら、大成功だったと思います。でも、そんな映画は私には何の意味もありません。

後半のオリジナル部分で、私はべつに同性愛讃歌をやろうとしたわけじゃなくて、本当に気持ちいいことをしたいと自分に正直になったとき、男だとか女だとかいうことにとらわれなくてもいいのではないかと思ったんですよ」

わかる、わかると大喜びしてくれた女性たちがいる一方で、この映画を観て本気で怒ったり、憮然として固まってしまった男性たちも少なからず。

「男性の反発は、女が欲情して男を共有したり、男の肉体を利用して性を楽しむなんてとんでもない! というものでした。そういう人たちは、谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」のように、年とった男が若い女に欲情するという話なら許容するのだけれど、その逆は絶対に認めないんです。老女の性愛は、高齢者であること、女であること、の二重の差別を受けているわけですね。昔と今とでは日本人の寿命も延びて、ライフスタイルも変わってきたというのに、日本の中高年男性のセクシュアリティは全然変わっていないですね」



人は最後の瞬間まで、
心と心、体と体のどこかでつながっていたいから…


自分の胸に手を当てて考えてみていただきたい。人は何歳まで恋愛できるか、という問いかけに対して、プラトニック・ラブなら80歳でも90歳でも許容するという人が多いはず。しかし、そこにちょっとでも性的・肉体的要素が入ってくると、たちまち拒絶反応が出てくるのはなぜだろう。いい年をして恥ずかしいとか、色ボケとか、侮蔑的な言葉で否定されるのが常である。高齢者に許されるのは、かりにそんなものがあるとして「性的要素抜きの純粋プラトニック・ラブ」だけということなのだろうか。人はそんなに思い通りに精神と肉体を切り離せるものだろうか。そこにはやはり、偏見があるとしか思えない。

「若い人の反応は正直ですよ。映画を観て、婆ちゃんたちにも性欲があると知って、最初はびっくりしますが、そうか、人は年をとってもそういうものなんだと、素直に理解しようとします。頭がやわらかいから、柔軟に見方を変えられるんですね。頭の固い爺さんたちはダメ。頑迷固陋、かたくなに見方を変えようとはしません」

浜野監督は、上映会で50代の男性から「女性は閉経したら、性欲もなくなるんじゃないですか?」とまじめに質問されて耳を疑ったという。
「そんなふうに思いこむ人がいるのは、性=生殖という枠組みを社会が押しつけてきたからでしょう。私は男も女も、いくつになっても性欲はなくならないと思っています。でも、一般的には、性=生殖の枠組みでとらえられているから、生殖能力がなくなった年代の人たちは、性から排除されてしまう。女は閉経したら女じゃなくなり、男も勃起しなくなったら男じゃなくなるというわけですね」

たしかに、閉経して子供を産めなくなった女性と、年をとって男性機能を失った男性は、役立たずとして社会の隅っこに追いやられているように見える。実は、映画「百合祭」で、ミッキー・カーチス演じるちょいワル爺さんは「立たない男」という設定だ。したがって、主人公の宮野さんとの性交渉も「接触」にとどまり挿入はない。そんなセックスを、宮野さんは「肉球(猫の足の裏のやわらかいところ)みたいだった」と表現し、こんなふうに回想する場面がある。

《年をとって、男の人の体の中で、あそこが一番やわらかい場所になったんじゃないかしら。やわらかくて、あたたかくて、気持ちいい》
「あの台詞には、最後の最後、死ぬ瞬間まで、人が人として、心と心、体と体のどこかがつながっていたいという思いが込められているんです。男の人は勃起にこだわるけれども、やわらかいものを押しつけるだけでも、女の人は気持ちよくなれるんです」



女性の視点で見たシニア世代の性と愛 シニアの性を考える「百合祭」
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